恋愛映画を見るシリーズ、今回は「さよならをもう一度
」(フランス・アメリカ合作、アナトール・リトヴァク監督、1961年)です。
この映画は、イヴ・モンタンとイングリッド・バーグマンという超豪華なキャストで贈る大人の恋愛の映画です。
イヴ・モンタン演じるロジェとバーグマン演じるポーラはいわゆる中年のカップルで5年付き合っていますが、ロジェは他の女性とデートすることを止めないと公言するプレイボーイです(さすがイヴ・モンタン! 笑)。
それでもポーラはロジェが好きで、関係は現状維持のまま続いて行くのですが、ある日インテリア・デコレーターであるポーラは、リッチなクライアントの息子であるフィリップに出会います。
25歳のフィリップは40歳のポーラに恋をして、 「歳の差なんて関係ない」と、若さとお坊ちゃん特有の向う見ずな純粋さが混じった、弱腰なのに強引(笑)というやり方でグイグイとポーラを押していきます。
最初は若い男の子としてあしらうようなポーラでしたが、ロジェの他の女との関係に寂しい思いをしている自分をフィリップに気づかされ、ロジェを愛しながらも徐々にフィリップに心が動いてしまいます。
ロジェの新しい女のせいでまたデートをすっぽかされたポーラはロジェの出張中についにフィリップの押しに負けて関係を持つことになります。
最初はうまくいっていたポーラとフィリップですが、職場や周りの人間はこの歳の差カップルを祝福することはなく、またフィリップがダメっぷりを露呈して仕事をしなくなったりして、徐々にポーラの気持ちは離れていきます。
そんな中フィリップはポーラに求婚しますが、ほどなくしてポーラを失ってポーラの大切さを実感したロジェがヨリを戻そうと動きを起こしてきます。
結局フィリップを振ってロジェと戻るポーラでしたが、それでハッピーエンドとならず、またロジェの女遊びが始まる…というのがストーリーです。
…長くストーリーを説明してしまいましたが、「さよならをもう一度
」の特筆すべき点はやはりただの恋愛→失恋→元サヤ→ハッピーエンドという図式にはまることなく、ただの映画のストーリーを越えたリアルな恋愛の一面を描いているところにあります。
つまりロジェはポーラのことが人生で大事だと痛感し「君なしには生きていけない」と告白して結婚をするにも関わらず、ロジェの女遊びは終わらず、ポーラはまた結局憂欝な顔をして生きていくということが匂わされているのです。
このラストシーンは私たちに「本当にポーラはロジェとヨリを戻して幸せだったのか?」という問いを投げかけるのですが、劇中でポーラもロジェもお互いを本当に愛しているという事が十分に伝わってくるので、その問いは実は「本当に愛している相手だったら、その相手が他のパートナーとカジュアルな関係を持つのを許容するべきなのか?」ということになります。
現代の恋愛で言うとポリガミーやオープンリレーションシップの問題に近いわけですが、ここでは「本当に愛している人と一緒にいる代わりに他の相手との交際も認める」のと「好きな人が他の相手と交際するのが嫌だから、その人のことを諦める」のとどちらが幸せなのかということになります(あくまでポーラの視点から見た場合)。
逆にロジェの視点から見れば、ポーラを一番愛しているが、他の女ともたまには遊びたい、ということになります。これは伝統的な恋愛観から見れば「お前がポーラを愛しているなら、お前が女遊びを我慢して幸せにしてやれ」ということになるのですが、そういうわけにはいかないわけです(イヴ・モンタンですから…笑)。
ここで思うのが、パートナーでない他の相手とのカジュアルな交際は常に誰の犠牲の上に成り立っているのか、という問題です。これは現代のポリガミーやオープンリレーションシップを語る上では重要な問題です。
「あの人はそういう人だからしょうがない」という割り切った人もいるので、パートナーがそういう理解のある人で、カジュアル関係の相手も割り切っている、という場合は成立しうるのですが、私の経験では嫉妬や傷心がどこかで起こることが多いと感じています。(そもそも、うまくいっていればお前の所に相談には来ないだろ、と言われればそれまでですが、友人や自分の経験も踏まえての観察結果です)
ポーラは何かを犠牲にしてロジェとの関係を手に入れたのか? それでもそれに価値はあったのか? 恋愛関係における幸せはどういう状況を言うのか? そんなことを考えさせる珠玉のラストシーンをみなさんも是非見てみてください。